「渡会61(高田渡聖誕祭)」@カトリック吉祥寺教会 大聖堂
http://clockwork-sunset.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/gwan-96ee.html
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=51996877&comment_count=13&comm_id=374246
GWANさんが持参した渡さんのギター……NOROの加藤さんが保管していた、なぎら健壱さんが撮影した渡さんのパネル……
以下の文章も転載です
--------- ↑以上、GWANさんの 告知より↑ ---------
…というわけで、大きめのイベントがあったときにUPされる不定期フォトギャラリーです。
(不幸にも恒例になりつつあるけれど)
今回は4月16日、吉祥寺は「いせや」の先にある「カトリック吉祥寺教会」にて行われた第61回高田渡生誕会、通称『渡会61』(←“わたらいろくじゅういち”ではない)の模様です。
昨年までのようなイベント用の会場ではなく、正真正銘ホンモノの教会で開催されました。
一体どんな風になるのかと思っていたけれど、フタを開けてびっくり!気がつくと15:00〜20:30までの5時間半があっという間に過ぎてしまいました。
それにしても、教会という場所の効果は絶大で、参列者全員とてもお行儀が良かったのが印象深いです。
去年の三鷹市武蔵野市市民文化会館でのように、ステージ上で飲み始めるミュージシャンや、幕間のロビーで花見を始める輩(誰だっけ?)が全くいませんでした。
その代わり、会場の後方席の人がいつの間にかいなくなっていて、気がつくと戻ってきているということは度々ありました。
「いないな〜、もう帰っちゃったのかな〜」とか思っていると暫くして戻ってくる。しかもほんのりと顔が赤く、何やら焼き鳥クサイ。
どうやらみんな、徒歩2分の「いせや」に行っていたようです
なにしろ、飲みたくなったら「ちょい〜とソコまで」歩けばヨイのだから、実に高田渡さんに似つかわしい立地だと思います。(時間が経つにつれ、聖堂内がどんどん「いせや」の臭いになっていったのはご愛敬!?)
それではコチラからご覧ください!
【2010.4.16 開催、『渡会61』ギャラリー!! その1】
http://mixi.jp/view_album.pl?id=47839748&owner_id=4956452&mode=photo
【2010.4.16開催、『渡会61』ギャラリー!! その2】
http://mixi.jp/view_album.pl?id=47838975&owner_id=4956452&mode=photo
感想やコメントをつけるときは、各写真のページにあるコメントは使わずに、このトピック:公開!! 【2010.4.16 『渡会61 』 ギャラリー!! その1&その2】につけるようにしてください。
閲覧した人がお互いにコメントを見られた方が面白いと思うので。
また、訂正や補足があるときは遠慮なく書き込んでください。
特に今回は、各写真のキャプションがほとんど無いけれど、出演順や進行が細かく決まっておらず、また、プログラム等の資料も無かったので参加者のお名前や演奏した曲名が特定できていない為です。
「アルバムの�×××は、誰々」とか「�×××は何々を演奏したとき」という感じで指摘していただければ、アルバムの方のキャプションに徐々に入れて行こうと思っています。
他にもお手持ちの写真なんかもよろしければどんどんUPしてください。
最後に。
「渡会61」冒頭で、ゆみこ・ながい・むらせが朗読した後藤神父さまに宛てた“企画趣意書”を掲載しておきます。
----------ここから----------
『高田渡くんのレクイエム・コンサートをカトリック吉祥寺教会で』
エッセイスト: ゆみこ・ながい・むらせ 村瀬春樹
高田渡は、生まれながらに、不思議な引力を身につけていた人物だった。
彼の音楽、彼の歌、それに彼の人柄が人を引きつけるのである。
私たちは、1970年代、日本のフォーク・ミュージックの黎明期に、
吉祥寺でライブハウスを主宰していた。「ぐゎらん堂」という小さな店である。
ある朝、店のドアの覗き窓の向こうに見慣れない人影があった。ドアを開けると、
新婚早々の高田渡夫妻──ワタルと富美子さん──が紙袋を二つ提げて立っていた。
ふたりとも、22歳。京都での暮らしに見切りをつけて、近くのアパートに引っ越してきたのだという。
それ以来、吉祥寺には、彼を慕って多くの人びとが集まりはじめた。彼のファンはもちろんのこと、
関西からも気鋭のミュージシャンたちが、次々と吉祥寺を中心とする中央線沿線に居を構えることになる。
やがて、吉祥寺は若者の街といわれ、若者たちが最先端のメッセージを発信する音楽の街となった。
高田渡は「フォークソングの吟遊詩人」といわれるフォーク界の巨人だ。
彼は、同時代のミュージシャンたちに大きな影響を与えたが、その表現スタイルには独特のものがあった。
巧みなギター・テクニックを駆使し、自作の詩をアメリカン・オールドタイミー・ミュージック──ブルーグラスやアフロ・ブルーズ──にのせて飄々と歌う。現世の名利に執着せず、遊びに生きたこのアーチストが生涯暮らしたのは、電力容量が15アンペアしかない老朽アパートだった。
そんな彼が人びとを魅了したのは歌だけではなかった。
彼がステージで見せた曲間のトーク──晩年は、五代目・古今亭志ん生の域に達していた──は秀逸だった。
「うちは、ヘアドライアーとアイロンを一緒に使うとプツンとヒューズが切れちゃうんです」。
聴衆から笑いをとると同時に、彼は自分の生きざまをさりげなく伝えていた。
彼が胸の内に抱えていた三大テーマは「放浪」と「貧乏」、そして「反骨」ではなかったかと思う。
高田渡は、自らが大貧民であり、頑固なキリギリスのような男だった。
そういえば、風貌もどことなくキリギリスに似ていたが、アリが冬に備えて一生懸命あくせくするのに、遊びをせんとや生まれけむ。
短い夏を歌三昧に生き、2005年、公演先の北海道で倒れ、56歳の若さで他界した。
彼は、生前、多くの人たちを引きつけたが、死してなお、その不思議な引力を発揮しているのには驚かされる。
2005年4月、高田渡──洗礼名「パウロ」のミサはカトリック吉祥寺教会で行われた。
このとき、誰かが特に呼びかけたわけでもないのに、400人もの人びとが驚きと悲しみを胸に全国から参集した。
柩に横たわった彼に最後の別れを告げ、その棺が友人たちの手で運ばれようとしたそのとき
──葬儀の演出の一環だったのだろうか──教会の天井から響いた歌声があった。
♪ 夕暮れに 仰ぎ見る、輝く青空……。
高田渡が歌う『私の青空』だった。
♪ 狭いながらも楽しいわが家 愛の日影のさすところ。
教会のベンチに座った多くの人びと──私たちも含め──は不意を衝かれ、ある種奇妙な感覚を覚えた。
それは、まるで、高田渡の死が幻であり、彼が歌うライブ会場のシートに座っているかのような錯覚におちいったのだ。
だが、彼の死は現実だった。高田渡の遺体は黒塗りの車に乗せられて火葬場へと向かった。
あの日と同じ教会で、高田渡のレクイエム・コンサートが開かれるというのは素晴らしい試みだと思う。高田渡と吉祥寺教会の出会いは運命的だった──といっていいかもしれない。
カトリック吉祥寺教会で、パウロを偲ぶコンサートを実現したいと切に願っている。
----------ここまで----------
Tabute
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